9・11

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peace candle

4年前の9月11日。

今、振り返ると、現在の私につながる衝撃的な日。



それまで「平和」は当たり前のことだと思っていた。「戦争」は悪だと。どんな大義名分をかざそうとも、人を殺すことは許されてはならないことだと。


それは、周りの人も一緒に言っていたことだったし、みんな本気でそう考えていると思っていたから、9.11からアフガン攻撃へと移っていった1ヶ月が信じられなかった。



「平和」のことを一緒に話していた人たちが、
突然口をつぐんでしまった。


「平和」「平和」と唱える私は、
「現実を見ていない理想主義者」のレッテルを貼られてしまった。




絶対的に正しいと信じていることが揺らいだ日々。



独りぼっちになった気がして、恐くて恐くて、
考えてることを言えなくなってしまった。



でも、言わないでいることも、
逆に自分を苦しめる。


空爆が続き、人がどんどん死んでいく中、
「何も言わない」という罪悪感。



本当に恐ろしかった。





あれから4年。


独りじゃなかった。


同じように思って、
ちゃんと行動していた人とめぐり逢えた。




中央公園にて

そして今日。


公園で、虫の声がこだまする中、
ピースマークのキャンドルを囲み、
みんなで手をつないだ。


みんなの想いを一言ずつ。



一巡する間に人は増え、
最初、みんなでめいっぱい伸ばさないと
届かなかった輪が、らくに一つの輪になった。




不思議な静寂。




手のぬくもり。
キャンドルのぬくもり。



これまで亡くなっていった方々が、
私とは無関係ではない、ってことを
思い知らされながら祈る時間。



閑かな、閑かなピースキャンドルでした。

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■人間はひとりじゃない!
kanakitaさん こんばんは。

人はひとりじゃないんです。
あなたの一歩が、きっと周りの人につながって全体になにかしら影響を及ぼすと信じています。

動かなきゃ変わらない。

石を投げてみなければ、波紋は起こらない。

今は、蟷螂の斧としか思えない行動でも、行動することで少しずつ変わって行くと思います。

楽しみながら頑張れ!

■戦争について
戦争 今現在の自分には現実感の沸かない話ですが、確実に世界のどこかに存在している出来事ですね。
だから目を背けちゃいけないとか、もっと世界のことを考えてみよう なんて偉そうなことは俺には言えません。
ただ、なんで戦争というものが存在するのかということについて、自分なりの考えはあります。それは

「人類が存在するから」

地球上で「感情」を持った生物は人間だけですからね。
この「感情」というものが一番厄介なものなのかもしれません。
もっと言うと「欲望」という言葉になるのかもしれません。
ただ、「感情」や「欲望」というものは人類が存在する以上否定はできませんよね。
だからと言って戦争というものがなくなることは無いとは言いません。
無くなるように考え、願い、小さなことでも行動する「勇気」というものも人類は持っているはずだと信じたいのです。
今の自分になにができるかはわかりませんが、まずは考えてみることから始めてみようかと思います。

■蜜と花のうた
 こちらこそブログによって頂きましてありがとうございます。さて、私たち大人は、幼い頃に教わった「みんなとなかよく」「暴力はだめ」というこの世の真理と、どう向き合いましょう。子供すらよく理解できる、実に単純な愛の行為を、大人になればなるほど、理屈の下に埋もれさせ忘却てしまいます。無知こそが、人間の敵です。なので、大人を変えるより子供に伝える方がよっぽど速いかもしれません。「地球を大切に」と机の上やTVの中だけで諭してもだめ。「地球を大切に」しなくてはならないのは私たち大人だけではなく未来の地球の住民達、子供達です。なのに今の子は虫1匹触れない、土を汚いという。これは深刻です。「戦争はいけない」と作文に書き、クラスのいじめは放っておく子だって多いと思います。無知は、ひとの敵。そして「知っている」のに行動が伴なわないような人間を形成してしまう家庭や世の中もまた、この両腕を、互いの首をしめ合うという行為に使わせている様に思います。両腕は手を繋ぎ合う為にあります。そうですよね?この国には、声を出す、手を繋ぐ、という方法は数多にあります。どんな方法で携わってもいい。日々の営みの中で「行動」と「知っている」事とを出来るだけ一致させる事が大切のように思います。9・11であれば、それを年に一度のメモリアルにしてはいけないと思います。年に一回、作文に「戦争はいけない」と書くことは容易いのです。日常にテロは転がっています。隣人との不和や他者へのちょっとした偏見がそのひとつだと思います。「知っている」という姿勢とは、9・11を、自分の日々の些細な出来事の中に見出す事であり、見出したなら、「みんなとなかよくする」という事と現実とのブレを少しでも直そうそする行動の事です。私を含めて、人は上辺の印象や感情に左右され過ぎ、人(他者も自分も)を信頼しなさ過ぎです。宇宙の端の塵の様な星に住む塵の様な一生をもつ、人。塵が「あっちの塵は嫌いあっちの塵は卑しいあっちの塵は悪」と罵り合っているなんて、なんという無駄。私は「あっちの塵は悪」というより、例えばボトル飲料を買わない方を選びたい。無農薬の野菜を育て、味噌をつくり梅を漬ける方を選びたい。こどもたちと一緒に蚕を飼い、一喜一憂する方を選びたいと思います。これは私と世界との関わり方です。関わり方は皆さんそれぞれにあります。世界と関わるのは喜びですね!

■Re: ふゆさんトクさん
コメントありがとうございます。

>ふゆさん
思うようにはなかなか周りの人につなげていくことができないでいるのですが、言っているだけ、思っているだけで、悲しくなっていたところでどうしようもないので、できるところからは動いているつもり、、、です。(つもりだけかもなぁ。)

>トクさん
なんだか最近離れているのですけど、かのHOTEI氏のフレーズを思い出しちゃいます。(笑) 戦争に大して現実味がないのは私も全く同じで、でもこの想像力の欠如が自分で恐ろしい。日常に埋没するのは簡単なのだけど、それでは結局罪悪感に苛まされることになるので、私にはできないのだなあと思う日々です。

■Re: 蜜と花のうた
うたこさん、コメントありがとうございます。どうお返事したらよいのかと考えていました。

世の中には「絶対的な真理」がやっぱりあるのだと思います。少なくとも私はそのことを信じているし、それに従って生きていたいと思います。なのに、それができない、もしくはできないと思いこんでいる自分がいるのも事実です。この2つの自分を、どこでどう折り合わせていくのか、どうやって真理の方に近づいていくのかが私の課題です。

また、「無知」を恥ずかしく思ってもいます。「知らない」というだけで、破壊や暴力に荷担してしまっている現実。私の好きな作家(漫画家ですが)が登場人物に言わせているセリフの中に「ある行動に対してイエスと言わない限りそれは否定となり、ノーと言わない限りそれは肯定となる。そして破壊に対してイエスと言い続けてきたわたしたちは明らかに有罪です」という言葉があります。無知であるが故にイエスともノーとも言わないでいることで、私をますます罪深い人間にしているのです。

この罪を償うために、為すべき事を考えているのが現在です。考えているだけではダメだと、行動にも移していこうとしていますが、まだまだ足りない。なんだか返事らしくない返事になってしまいましたが、、、。

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