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秋だから、考える?

めっきり涼しくなってしまったSLC。
今年は本当に夏が短かった、、、。

でも、引っ越しをして、ちょっと高台みたいなところに住むようになったのも関係してるのかもしれない。きっと、平均気温が、以前に住んでいたところよりも低い。

庭の野菜やハーブたちは、気温が低くなった上に、日照時間まで短くなり、ちとかわいそう。ピーマンやバジルは、鉢が小さいので、南側へ移動。ほうれん草やサラダ菜たちは、涼しい方が快適なので、今後に期待。

最近は、死刑関連の記事を読む機会があって、死刑についてまたちょっと考える。日本の裁判員制度は、死刑あるいは無期懲役・禁固に相当する罪を犯した事件に関してのみ、裁判員制度が適用される。ということは、裁判員制度の対象となる事件数は少ないかも知れないが、裁判員に選出された人への精神的負担は大きい。

読んだ記事は、アメリカの死刑求刑裁判において活躍する情状酌量専門弁護士の活動についてだったが、なかなか興味深い。陪審員が量刑の判定をするにあたって、凶悪犯罪を犯した人に対し、情けをかけて、死刑以外の刑を選択することは、何ら間違ったことではない。そう選択する理由を、他人に分かってもらえなくてもよい。説明できなくてもよい。理由なんてなくたってよい。

私は陪審員にも裁判員にも選出されたことはないが、この言葉は覚えておこうと思う。

昨日は9・11。10年の節目ということもあってか、ラジオもテレビもその話題でもちきり。私はというと、その後のアメリカ、その後の日本を含む西側諸国の反応を思い、単純には9・11の犠牲者に同情できなくなる。ちなみに私の周りも変わった。私も変わった。柔軟でありたいと思っていた頃だが、ある一点に関してだけは、かたくなで居続けなければと思った。

戦争には反対だとか、死刑には反対だとかを口にしても、その理由をうまく言葉にすることができない。誰かに反論されると、言い返せない。でも、だからといって、規模がどうであれ、大義名分があろうがあるまいが、人が人を殺めることは間違っている。この点は譲らない。うまく説明できなくても、黙ったりはしない。

なんてことを、誰かに問われたわけでもないのに、ぐだぐだと考えてしまうのは、やっぱり秋だからなんだろうか、、、。

やっぱりあこがれの農業。

友人に感想を聞きたい!と言われ、「SAYURI」を観たのですが、そこに工藤夕貴が出演してた、というのがきっかけで、どんな人なんだろう?とググってみると、なんと、今は、農業もやってらっしゃる方なんですね。
工藤夕貴オフィシャルウェブ
チラチラっと内容を見ていると、ああ、楽しそう、、、。

私もトラクター乗りたい!
稲藁のニオイを胸一杯吸い込みながら、稲刈りしたい!!!

そして、どの野菜も美味しそう、、、。
てか、まず、土が美味しそう、、、!!!(笑)

昔、有機農家のところで、
野菜を作らせてもらっていたときのこと、思い出しちゃいました。

ハウスの中とはいえ、暖房ナシなので、、
夏野菜がどんどん枯れていく中、
気温が下がって元気になった水菜や小松菜。
そして、初めて作って食べた生の野沢菜。美味しすぎてビックリ。
冬に、雪の下でもがんばるほうれん草の味、忘れられません。絶品です。

農を生業にして生きていこう、という気概はないけれど、せめて自分の家族が食べていける分の食糧(穀物と野菜)は、自分で作れるようになりたいなあ、と考え始めたのは、いつだっけ。今も決して忘れたわけではないけど、その生活からは離れている気がするのがちょっと寂しい。

しかも、中心に「米」そして「水田」を据えたいなあと思うので、やっぱりいつかは実家のあたりに戻っていたいなあ、とぼんやり思います。どう実現できるのかは謎ですが、、、。

あ、ちなみに「SAYURI」は、私向きの映画じゃなかったです。ツッコミどころを挙げ出すとキリがない上、毒舌(?)が過ぎるので、敢えて書きません、、、。

好きこそ物の、、、

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基本的に、私の生活は「好きこそ物の上手なれ」に支配されているような気がします。結婚前もそうでしたが、結婚後はますますそんな感じ。

美味しい物食べるのが好きだから料理もするし、シンプルな道具でキレイになるのを見るのが好きだから掃除もします。いわゆる家事のなかで、あんまり好きじゃなかったのは、洗濯を干したり畳むことだったんですが、それは、一目惚れした物干し台(クロスドライヤー)を購入してからは、前ほどキライじゃなくなったかも。勉強にせよ何にせよ、好きじゃなかったり、楽しくなかったら、自分にアマアマ人間な私には、どれも続きません。

ダンナに言わせると、「そんな、好き、好き、とか、楽しい、楽しい、だけで、世の中できてない。」なんだそうで、それはもちろんそうだなあとも思うのですが、そんなに辛い世の中なら、楽しいことや好きなことを増やす方がハッピーじゃん?と思います。けど、それって単純すぎなのかなあ。

まあ、ワタクシ、単細胞人間ですからねえ。(<開き直り。)


ただ、「家庭を守る主婦」と結婚した覚えのないダンナには、私がなんでもやっちゃうのが不満らしいです。料理しすぎる、とか、オレはここ数ヶ月掃除機も握ってないし、洗濯もしてない、とか。私は単に、時間もあるから「好きでやってる」だけで、家庭を守ってるつもりも、主婦になってるつもりもないんですけどねえ。

ああ、そうそう、掃除に関して言えば、「汚い」と感じる度合いが違う、というのもあるかなー、と。

これは以前、友人夫婦が結婚したての時に聞いた話ですが、そのご夫婦は、ダンナさんの方の汚さ許容範囲が狭い(要は、ダンナさんの方がキレイ好き)なので、我慢できなくなって、先に掃除を始めるそうです。で、うちの場合は、私の方が、汚さ許容範囲が狭いので、掃除もする羽目になるワケです。ついでに、シンプル&ナチュラルクリーニングを試す機会になるので、楽しいワケです。楽しいと思ってる方がやった方が、イライラ度も少なくて合理的じゃん!と思うのですが、私が家事全般をやっちゃうことで、ダンナのイライラが増えちゃうので、なんだか話がややこしくなってるんですがね、、、。

料理にしても、美味しい物をリーズナブルに食べたいから、レシピも探すし、色々料理もしてみるわけです。デンバー時代は、何度か外にも食べに行きましたが、美味しければ高い、安ければまずい。最悪なパターンは、高いくせにまずい。で、もう、これは自分でつくるしかないなあ、となっちゃったわけです。ダンナは毎日おんなじもの食べてて平気な人ですからね。料理なんて期待できないし。

と、だんだん本題からズレて愚痴になりつつあるので、そろそろオシマイに、、、。

厄年?

厄年とか、あんまり考えたり意識したりしたことはないのですが、まあ、大きな転換期に入ってきたなあとは思います。色々あるような年頃だから、何でも気をつけないとね、ってことでしょうか。


いっぱい考えたりやんなくちゃいけないことがあるというのに、割とのっぺりしていて、これでいいのか? いや、やばいっしょ?と不安になることもありますが、相変わらずお芝居やコンサートに行って、美味しいもの食べに行って、ボーっとしてます。うーん、危機感なさすぎ、、、。


とはいえ、収入がガックリ減っていて、4月からはさらに落ちること必至なので、焦りがないわけではありません。でも焦りすぎて、自分を見失うのもイヤなので、まあ、なるようになるさ、いざとなれば誰かに泣きつく!なんて、どこかで考えてるので、お気楽なんでしょう。


、、、書いてて結構自分がダメ人間に思えてきました。いえ、ダメ人間なんですけどね。ホントに。

最後の一滴

眠って起きたら、230%でフル稼働するのかなあ(230%だと「フル」じゃなくて「オーバー」稼働っすね。より正確な表現をするならば。)と思っていましたが、眠って起きたら、問題がよりクリアになり、いろんなことが分かってきました。


今後、私が取るべき対策とか。
話をつけなくちゃならない内容とか。


でも、明日、明後日に、という話ではなく、ゆっくりと落ち着いて、問題点を整理してから、じっくりと取り組みたいと思います。私自身の今後に大きく関わってくることですし。感情が昂ってるときに話すようなことではないし、それでは論点がずれそうなので。頭悪いので、ちゃんとクリアにしてから臨みます。

それにしても、突然キレてしまったのは何故かなあと思っていたときに、満杯のコップの例えが思い出されて、決して「突然」なんかではなかったのだなあと分かりました。


ごくごく些細な不満、問題、その一粒一粒が、一滴ずつ私のキャパシティのコップに溜まっていき、昨日のあの一言が放たれる前に、コップが溢れる寸前になってたのでした。で、最後の一滴が落ちたとき、パーンと決壊。キャパを超えた分だけが溢れだしたのではなく、温度が高すぎたのか、残念ながらコップそのものも壊れてしまったので、それまでの不満も問題も全部出ちゃってます。あーあ。

ついでに言うと、本日も、決壊したコップに、これでもかともう1滴。

あやうく激昂するところを、すんでのところでブレーキかけましたが。(私もオトナになったもんだわ。<大笑)

私も慎重に出るつもりですが、相手方の対応も、きっと見ものです。というか、どんな対応に出るかで真価が問われるので、実は、私にとってのみならず、相手方にとっても正念場、なわけなのです。相手方が、今が正念場なのだと認識するかしないかは別として。

ちっとも具体的じゃないので、何の話やら???でしょうか。
いいんです。何年もたって、私が読み返して分かるのであれば、他の誰にも分からなくてもこれでオッケー。

仕事と生活。

生きるために仕事をするのか、
仕事のために生きるのか。


もちろん、「生きるために」仕事してるだけで(いろんな意味を含め)、仕事のために生きてるわけじゃないと思いたいのだけど、部屋を片づける時間さえなく、超すさんだ状態の部屋の中で、さっき書いたような怒り(?)がぐるぐる巡ってる現状では、仕事のために生きてるような気がしてきて、やっぱり「ふざけんじゃねー!!!」と叫びたくなってしまう。


荒みすぎかなー。

「独り」 Part II

激忙しい割に、気持ちのアップダウンの幅が少なくなってきて、安定している最近は、毎日がほんっとに充実していてシアワセさん、なのだけど、ふと考えてみると、友達も少なくて、カレシもいない私は、あら結構孤独じゃん?と思ったりします。



親元に住んでいるので、全くの独りぼっち、なわけではないですが。




だけど、職場でも決まった人たちとしか顔を合わさず、休みナシで職場と家を往復するだけの生活をここ2年くらいずっと送っているのに、この異様なほどの(笑)充実感はなによ!?と自分でもちょっとツッコミたくなるのです。



というわけで、少し考えてみましたら、私は「独りでいること」が平気な人になりたいのだなあ、ということに気がつきました。で、今、ちょっとそんな感じなので、嬉しくて楽しいんだと思います。意外にできるじゃん、って。



これは、その昔、依存型だったことからの反動です。多分。



依存、というか、相手に120%の信頼と愛情を注ぎ込み、相手からも同じだけのもの返してくれることを望んでいて、誰かに必要とされている、という感覚を常に常に持っていたかったのだと思います。


なぜそんなにベタベタな感情を要求していたかというと、それは、親との関係や、イジメに遭ったことなんかとも関わってくるのだろうと思うのですが、とにかく、いつもいつも確かめていないといけないくらい不安だったのです。



だけど、ベタベタな関係は長続きしないので、かなり暴力的な形で破綻しました。いつも。





何度か繰り返しているうちに、「そろそろあんたも、独りで立てるようにならんとダメなんじゃない?」って思うようになったり、そんな私の葛藤にツッコミを入れてくれる人が出てきたり、歳と共に、ダメダメな自分を認めることができるようになって、ダメな自分でも、自分のこと好きじゃん、って変な自信がついたり(笑)、そうしたら、つるんでいることが面倒になってきて、気がついたらこんな状態。




さっき、「独りでいることが平気」って書きましたが、全くの天涯孤独、話す相手も誰もいない、ってことではなく、「つるまなくても平気」ってことかなあと思います。つるんで、その輪の中からはみ出ないようにして、その輪の中の人たちから必要とされていると常に感じてなくちゃ自分の存在価値が分からない、って状態は、とりあえず抜けた、ってことでしょうか。

自分にとっては重要なことなのだけど、きっと他人様から見れば「くっだらない」と一笑に付されるようなことを、ぐるぐるうだうだと考えていられる私って倖せなんだなあ、私が今いるこの狭い世界って平和なんだなあと、ぐるぐるうだうだ考えている真っ最中に、ふと思った。



身の危険を感じていたら、周りの人との関係がうまくいかないって、悩んでるどころじゃないんだろうなあって。




非常事態下において、ある種の同盟感覚を抱くことになるか、一触即発の最悪の状態になるか、かなあ。想像すらもうまくできないんだけど。




茶色の朝

茶色の朝


は、訪れてほしくない。ぜったいに。





でも、共謀罪をごり押しで衆院通過させようとか、教育基本法変えちゃおうとか、妙な歴史教科書が出回ったりとか、イラク派兵の既成事実がどんどん延長させられたりとか、有事法制ができちゃったりとか、国旗国歌法が施行されたりとか、新ガイドライン=war manualでワケのわからない後方支援が決まったりとか、9条掲げてる日本が自衛隊もっちゃうことになったりとか、遡るにつれて、私の記憶はアヤシクなっていくのだけど、自民党が昔からやろうやろうとしてたことが、ジワジワと確実に形になっていってるのは、正直、『茶色の朝』はもしかして目の前?と背筋が冷たくなるのです。




くだらないことをぐだぐだと考え続けていられる(内容は、必ずしも楽しい内容じゃないのだけど)こと、の、倖せを、ずっと噛みしめていられるように、このままなしくずしにヤバい方向へ行かないように。




まずは、平積み本を少しずつでも片づけていかないと。

(でも、私の頭の中身が追いついてない、背伸びして買った本もたくさん。)

独りで生きていくわけではないけれど

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他者との関係について、思いを巡らせているここ最近。



といっても、毎度のことながら、ぜんっぜん深刻じゃなくって、ぼんやーりと考えているだけなのだけど。





その中の一つが、「友達」のこと。



「友達」と言われて、以前はもっとたくさん思い浮かんでいたのに、今はほとんどいない状況。(仲間、とか、同級生、とか、そんなカテゴライズできる友人はいるんだけど。)



といっても、それを寂しいと思っているわけでもなくて、こんな状況に自分が陥ったのは、私がとった言動のせいであるし、でもそれは私にとってはそうするしかなかったわけで、関係を修復しようとかも思っていない。



相手が関係を修復したい、以前のように戻りたい、と思っていても、私にその気がないからにゃあ。いつか、時が来て、「新たな」関係を築けるのであれば、それは全然オッケーなんだけど。




やっぱ冷たいよなあ私、でも、冷たいっていうよりは、「冷めた」って感覚だよなあ、でも、何がいったい「冷めた」んだろうねえ、、、???なんて、ぐるぐる考えてた時に言われたひと言。







『若い女同士の友情って、ほとんど恋愛じゃん。』







思わず、ポンッとヒザを打っちゃいました。






自分でも、もしかして、恋愛感情と似てる?って一瞬思ったこともあって、でも、いやいや、それ以上の絆、なーんて別範疇に入れたりして、かなりベタベタな関係だった。少なくとも私の方は。


そんなだったから、壊れてしまうと修復不可能になったのかも。




異常なまでの信頼、異常なまでの固執、異常なまでの依存。


そんなものが一気に崩れ去るわけだから、自分が播いた種とはいえ、受けるダメージは大きくって。って、端から見れば、自分で勝手に傷ついてるだけなんですけどねえ。(笑)




うーん、じゃあ、なんでこんな関係ばっかり、10代・20代(これからも?なのかは不明。)と築いてきたのかっていうと、それはまたボケボケっと考えていこう~というこの頃なのでした。


ちょっとばかし

週末から週明けにかけて風邪でダウン気味でした。

何とかは風邪をひかないはずなんですが、、、おかしいなあ。




なので、なるべくササッと仕事を済ませて、速攻でうちに帰ってきて、ベッドにもぐり込んでいました。すぐに寝られたわけでもなかったので本を、、、と思いつつ、手にとったのは結局マンガ。家裁の人、最終巻まで読み終わったものの、12巻からの話の展開が、11巻までとガラッと変わったので、ちょっと不満。(笑) でもおもしろかったです。そして、改めて裁判員制度のことを考えて不安になってみたり。裁判員制度の詳しい内容までは知らないのですが、「知らない」では済まされそうにないです、、、。




一般的に、というか、「ある人が」と考えていては、なんだかボーっとなってよく分からなくなるので、とりあえず自分の方にぐぐっと引き寄せて考えてみます。


「もし、<私>が裁判員に選ばれたら。」




公判に立ち会うために、裁判所に出廷しなければならないのは仕方がないし、その事件に関する法律を勉強しようと努力はすると思います。



ですが、裁判員制度の対象になるのは、はっきりいって重い事件ばっかりです。

裁判員制度の対象となる事件

裁判員制度ではどんな事件の裁判をするのですか。



こういった事件は、これまで審理の回数も多く、間も開いていて、裁判が長期化するものがかなりあります。


それを、「公判前整理手続」という手続を導入し、裁判員が争点について判断しやすくコンパクトにする、とのことですが、、、




たった1週間やそこらのぶっ続けの裁判で、ポンッと出された証拠を見たり、証人の証言を聞いただけで、適切な判断ができるのか、はっきりいって自信がありません。




というより、検察側、弁護側が、「市民」に向けて、いかに上手にプレゼンしたかで決まってしまうのでは?




感情に訴えた者勝ち、というか。






あと不安なのは、こういった重大事件にかかわったあとの、自分のココロです。



あのときの判断が正しかったのかどうかと、ずっとずっと考え続けることになると思うし、万が一間違っていたと気がついたりしたときには、私はどうなってしまうのでしょう。考えただけでオソロシイ。



自分自身のことについてだったら、過去に間違った判断をしていようが、それで周りに迷惑をかけていようが、結局自分に還ってくることなので、とりかえし、、、はつかなくても、何らかの形でフォローするなり、自分に背負い込むなりできるのですが、まったくの他人の生活や生命にかかわる判断を間違ってしまったら、、、???




ああもう、考えただけで憂鬱です。

プロ(法律家)でさえ悩む内容なのに、シロウトに判断させちゃあいけないと思うのですが、、、。

ニブいどころか

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先日書いた『家裁の人』の続きをどうしても読みたくて、でも本屋や古本屋巡りをする時間が惜しくて、結局また使ってしまったAmazon、、、。私のアマゾン依存度はかなり高いです。あんまりよくないのかもなあと思いつつ、、、つい。(「よくない」の根拠は全くといっていいほどありませんが、、、なんとなく。感覚的には、少なくとも「エコ違反」かな。)



といっても、新品はなかったので、マーケットプレイスにて。
いえ、もともと新品で探してたわけでもないので。



以下、『家裁の人』とは直接関連はありませんが、、、。








友人と話したり、nobk さんやくずはさんのブログを読んでいて、最近ハタと気がついたこと。







私は相当冷たい人間です。






「冷たい」というと語弊があるかなあ。







私でない人、の、痛みや苦しみを想像する力が弱い。






「弱い」なんて、それこそ弱い言い方かも。
まったくもって欠如。きっと感受性ゼロなんじゃないかな。











これは、かなりの大きな発見でした。



これまでも、うすうす気づいてはいたし、そう口にしたこともあったけど、最近は心からそう思う。







ある意味ショック。
でも、そうすると合点がいくことがいろいろありすぎです。




だからといって、自分の言動を全て正当化できるわけではなく、いえ、むしろ、過去に行った悪行の数々を思い出し、冷や汗をかいたりしているわけで。



でも、今ふりかえると我ながらなぜあそこまで、と思ってしまうような自分の言動に説明がつくというのは、万年自分探しをしているワタシにとっては進歩(と言っていいのかわかりませんが)でもあるわけで。





そして、そんな言動をとった結果の、今、ここ、にいる、ワタシ。






結局、やっぱり、「自分」。
自分の言動は、巡り巡って自分に還ってくる。





読んでる人には、なんのことやらさっぱり分からない文章になりつつありますね。
ちょっと、言葉がまとまってないのですが、この状況で取りあえず書き留めておきたくて。




そうそう、改めて自覚したのは、ワタシはやっぱり自分のことしか見ていないし考えていない。自分自身の感覚には相当敏感で、その感覚にかなり忠実に生きているように思います。

夏の日の想い出

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できれば二度と思い出したくない恥ずかしい思い出や、今考えても当時の痛みがリアルによみがえって来るような辛い思い出もないわけではない(特に、恥ずかしい思い出なんて、信じられないくらいたくさんアリスギ、、、<汗)、けど、そんな思い出のトナリには、そのときに想いを馳せるだけで、ホコッと幸せになれるような、そんな想い出もあって。




片付けものをしていたら、そんな幸せな想い出をよみがえらせてくれるものに、ひょっこり遭遇。






しかも、それは、自分自身。



6年前の夏。



モラトリアムの苦しみを、まだ全く理解していない希望のみの私。



前だけしか見ず、ただひたすら駆け抜けた夏。







そんな夏の、まぶしい笑顔の私自身を見て、幸せな気持ちがあふれ出して止まらなくなっちゃいました。




当時はよかった、とか、そんな風に思い出したんじゃ全くなくって、当時の幸せな感覚が、バババババッとよみがえってきて、いてもたってもいられなくなって。




、、、でも、過去の自分を見て、今、幸せな気分が止まらなくなってフワフワしてる、なんて、なんとも間の抜けた感じがするのも、私らしくてなかなか笑えます。

春の匂い

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今日の金沢は雪がちらついたりしておりますが、、、。

昨日の午前はいいお天気。冬の間閉め切っていた窓を開けると春の匂い。




と、母に言うと、「春の匂いって、、、どんな?」と怪訝な顔をするので考えてみましたが、私にとっての春の匂いって、ホコリっぽいようなカビくさいようなにおい。





雪が溶けて、そこここの土埃が舞うニオイ。




冬の間にたまった部屋の埃が動くニオイ。




そして、ちょっとまだ冷たい空気が鼻をクスグル。








はい。
母の同意も得られました。(笑)

心が貧しい???

日曜日の帰り道、ラジオのニュースを聞きながら。

思わず、クルマの中で声をあげてしまいました。

 

 

聞いたのは、こんなニュース。

 

自民党武部幹事長の発言。

(言葉尻まで覚えてないので、細かいところはご容赦を。)

 

『メール問題で民主党に逆風が吹き、(千葉7区の)補欠選挙において、自民党に有利になったなどと言う人がいるが、そんな人は心が貧しい。』

 

 

 

 

「は??? 心が貧しい???」

 

 

 

 

この人に心が貧しいと言われたところで腹も立ちませんが、こんな発言をする人が、国会でのさばっていること自体に唖然とします。

 

 

もちろん、(票を投じなかったにしろ)、選んだのは私たちなので、これまでの自分のこと、今後の選挙に向けての自分のあり方を、考えざるをえませんが。何とかなんないかなあ、もう。

ちょっと待った!

酔っぱらいビトに言われても信憑性がない!と突っこまれると、元も子もないですが、酔っぱらってでもないと怖くて(?)書けない、というのもまた事実。(つまり、今、相当よっぱらい、というわけですが、、、)




「国民投票法案」なるものが、本国会に与党から提出されようとしています。




現憲法を変えるためには、国民投票で過半数の承認を得ねばなりませんが、その国民投票がどのように行われるべきかは明記されていません。



その、国民投票の在り方を決める法案、なわけです。




すなわち、


「天皇制廃止」と「九条廃止」と「環境権の導入」


が併記されていて、一つ一つの是非を問うのではなく、全部いっしょくたにして、改正に○か×かと問われる可能性もある、ということです。


実際、現在与党が提出しようとしているのはそういう国民投票の内容だという話だし。



私みたいに、天皇制廃止→○、九条廃止→×、環境権の導入→○、、みたいな人は、どうすればいいの?っちゅうハナシです。




環境権の導入や、天皇制廃止に惑われて、改正OKと投票すれば、憲法9条も変えられちゃう!という危機感があるわけで。




こんなにこんなに大事なことが、ライブドアとか耐震強度うんぬんとか、メールをどうしたとかいうハナシの中に埋もれてしまい、関心が払われないままになってしまうのです。もちろん、耐震強度のハナシだって、大事なことなんだけど。



与党が通したいヤバイ法案が提出されるときは、センセーショナルな話題にメディアはかかりっきり、になることがよくあるらしいです。


それって一種のディア統制では?

言論の自由はどこへ行った?

いえ、そもそも日本に言論の自由なんて、実はないのかも。

人権。

いくつかかけもっているバイトの中に、大学1年のときから続けている仕事があるのですが、気づかない間に、少数意見だとしても、正しいことは正しいと想い続けなくちゃいけない(そして、できれば活動しなくちゃいけない)と思うようになったのは、このバイトのおかげかなあと思ったりもしています。



最近気づいたのですが、かなりもんのすごい環境にいる私。



そのバイトは法律関係で、といっても、私は法律のことはとんと分かりません。(汗)

そして、今日話していたのはこんなこと。




法律が人権を守るのではない。

法律を駆使する人間が、人権を守るのだ。




人権。

人が、人として持っている権利。

人が、人間らしく生きるために持っている権利。



ふだん、人権のことなど全く顧みなくていい生活をしているというのが、なんと幸せなことなのか。それにすら気がついていない私たち。権利を剥奪された生活を余儀なくされている人がいるという事実。権利を主張することすらできない環境にいることを強いられれている人が、世界にはたくさんいるという現実。私たちの生活は、そんな人たちの犠牲の上にあぐらをかいているものかもしれない。

停滞だってマイナスだってアリだと思う。

日曜日の仕事帰りにラジオをつけていると、ちょうど放送されているのが「NHKカルチャーアワー」。第2放送の方です。


これがまた、不思議なくらいに、そのときにボヤッと考えていたり、気にしていることとにピッタリくるような話がされていたりするのです。


この前もそんなお話がありました。


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タンス職人と管工事の職人。


タンス職人のおうちの水道管が壊れて、管工事の人に修理を依頼。修理代1万円。
管工事の職人のうちのタンスの立てつけが悪くて、タンス職人に修理を依頼。修理代1万円。


すると、これはトータル2万円の経済活動。


ところが、タンス職人さんと管工事の職人さんがお友達で、休みの日にそれぞれのウチへいって修理したんだけど、まあ、修理代もいっしょだし、チャラにしましょう、これを仕事としちゃうと税金もかかってくるし面倒だからね、ってした場合。


経済活動としてはゼロ円。

ですが、水道もちゃんと直ってるし、タンスだって立てつけが良くなってるのです。


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また、むかしむかしのそのむかし、家族がみんなで「仕事」をしていました。

おうちで仕事をする職人が、例えばおとうさんですが、仕事をするにはご飯を食べねばなりません。ちゃんと仕事をするには、休みがもちろん必要で、おうちがキレイでゆっくりと休める場でなければなりません。仕事をする部屋だって、きちんと片づいてなくっちゃいけません。そうしてできた仕事に対して報酬がもらえました。


ご飯を作ったり、部屋をきれいにしていたりすることも、この報酬を得るために必要な「仕事」で、それはおかあさんやこどもたちが分担していたのです。だから「みんなで」仕事をしている、という意識があった。


けれども今は、仕事の場が家庭から離れてしまった。おかあさんのする仕事は「報酬」とは切り離されてしまっています。だから、経済活動の数値の中には出てこない。


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聞きながらメモしていたわけじゃないので、相当うろ覚えなのですが、、、。


でも、数値でのみ表される「右肩上がりの成長」に疑問を感じている私は、この話の中に何かヒントが隠されているような気がして。


経済活動を表す数値には出てこないのだけど、なされている仕事。
そして、数値にしない(できない)仕事がたくさんなされている方が、実は豊かなんじゃないかって。数値に出てくる仕事って、その数値に振り回されているだけなんじゃないかって。



資源に限りがある地球上では、全てが右肩上がりにいくわけはないのです。いつかは停滞。もしくはマイナスになるのです。人口だって然り。いろいろクリアしなくちゃいけない課題はあるだろうけど、現代の日本、人口が減っていって正解だと思ってます。自分たちの土地で、自分たちの食べるものをまかなえるようになってから、人口云々って言いましょう、とか思います。極論、かもしれませんが。



と、話にまとまりがないですが、私が聴いていた番組はこれでした。
   ↓
NHKカルチャーアワー
「人間を考える~学ぶということ、伝えるということ」(4)

エッセイスト・画家……玉村 豊男
(1月29日(日) - 20:00~21:00 - NHKラジオ第2)

言葉と思考

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「連れて行きたい」




と言われるのと




「一緒に行きたい」




と言われるのとはずいぶん違います。





二人でどこかへ行くというのは同じでも、気持ち含む行為全体が大きく違う。





連れて行かれるのはワタシは嫌い。「連れてって!」と思ってる時は別ですけど。





言葉と思考の関係は、言葉が思考を型どることがある一方、言葉にならない思考もあったりして、どっちが先とも簡単には言えなかったりしますが、この2つのフレーズの違いは、思考を反映した違いなんでしょうねえ。





そして、昔、勉強したスピーチ・アクトを思い出したり。

サピア/ウォーフとか。池上嘉彦先生とか。

10年前の私から

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13年前の私から。

高校のときの家庭科の時間に、「10年後の私」へ、手紙を書くという課題がありました。


といっても、届いたのはもう3年も前。
nobkさんのブログを読んで、そういえば!と思いだした次第。




読んだ当時、27歳。
休学して始めた仕事を1年続けて、退学届を出した後、くらいかな?



手紙を書いたことも内容も、なんとなくまだ覚えていたので、届いたことにそうビックリはしなかったけれど、17の頃の私が大切にしていて、27の私に期待していたことは、そんなに叶ってなかった。



それは、17の私が見た27の私、っていうのはものすごくオトナだったのだけど、27の私って、全然オトナなんかじゃなかった、ってことで。今もオトナとは言えないんだけど、3年前は今以上にグルグルと迷ったり不安になったりしてたわけで。




「好きなこと、やってる?」
「ステキな大人になっててください。」



今でもやっぱりドキッとする言葉。
だけど、好きなこと、は、今は、やってるよ。
それは時に、好き勝手、と言われたりもするけど。



17のときの私が聞いたら、なんて言うか分からないけど、17のときの私も、今、30の私も、幹の部分はちっとも変わってないんじゃないかな。枝葉の部分で、とんがったところや、逆に丸くなったところはあるにしろ。


そして、37の私はどうなっているのかなあ。
その頃には、高校1年生の時の夏休みの課題だった、自叙伝が返ってきます。それも、まだうっすらと書いた内容を覚えているけど、7年後だし、その頃にはどうかなあ。


でもきっと、今の延長上に自分がいるわけで、仕事が変わったり、住んでる場所が違ったり、そんな外的な環境は変わっているかもしれないけれど、内的にはやっぱりそんなに変わってないんだろうと思います。

私のところへやってくるモノたち。

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プレゼントが嫌い。


なーんて言い切ってしまうと、なんとまあイヤな奴、なんだけど、もらって嬉しいときもあるわけで、どうしてなのかなあとちょっと考えてみました。



基本的に、満たされているんだなあ。私は。



食べるものも、着るものの、親元に寄生しているとはいえ住むところも、持ちものだって、満たされているんです。生活環境が変われば、また話は変わるかもだけど。


そして、たまに欲しいなあとか思うものがあったとして、それは私の中で、色はこれで、形はこうで、素材はこうで、と明確なイメージがあることがほとんど。よく似た何かが現れても、私のイメージと合わないときは、よっぽどの緊急事態じゃない限り、買わないことに決めています。今までさんざん失敗してきたので。



だから、もしそれが、なかなか手に入らないものだったり、ものすごく高価なものだったりするときは、「今」の私とは縁がなかったんだなあ、と思うし、想い続けたらまた縁がめぐってくるかも、と、その時を楽しみに待つことにしたのです。



その逆に、いつか私の元にきてほしいなあと思っていたものが、違う形で、要は、私が持っていたイメージとは違うタイプのもの、が、来てしまったときは、たとえいただいたものだったりしても、正直ガッカリします。出逢いたかったものと出逢うための瞬間を奪われてしまったような感覚。



かわいい長靴。

それでも、妥協できるときはあるのです。ま、これもいいかと。ただ、本当に欲しかったもののイメージと憧れは消えないので、いつか巡り逢ったときに手に入れてしまう危険性があります。そうすると、2つになってしまう。それって、なるべくモチモノを減らしたい私としては、悲しい。



だけどたまに、妥協できないときがあって、そんなときは本当に困ってしまいます。周りに誰か、欲しい人がいればいいけど、そう簡単に見つからないときもあるわけで。まあ、そういったものは、誰かに渡されるときがくるまで、もしくは、私の気が変わって「使ってみるかー」と思うときがくるまで、どこかで眠り続けます。



だからといって、衝動買いをしないわけではないのだけどねー。
それは一目惚れしたときか、物欲オバケがとりついているときです。


つい最近も、長靴に一目惚れして衝動買い。でも、欲しかった長靴のイメージにピッタリで! 色までピッタリ!!! ものすごくカワイイ!!!  素材は、、、敢えてノーコメント。(ゴムではありません。)

あ、だけど、例外ひとつ。

たべものだけは、もらってもほとんど困ったことはありません。うちには食欲オバケもいるのです。

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2012年7月

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